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夏に思う悲劇。

★嗚呼、また平和と不戦を祈る夏がやって来た。8月6日のヒロシマに続き、明日はナガサキの人々の頭上に、原爆「ファットマン」が炸裂して、町を焼き、人々を抹殺してから、64回目の記念日。

★唯一の被曝国である我が国は、戦争の記憶を風化させることなく、云々…とは今更改めていうことでもなく、言ってみれば散々言い古されたことではある。…それでも、核兵器が最初に投下され、爆裂して、多数犠牲者を出した国家の人間として、“ノーモア・ピカドン”“ノーモア・被爆者”を訴え続けることは、我々この島国の住人としての重大な平和的使命の遂行なのだ。

★でも原爆投下それ自体は、地球全体から見れば、何の傷をつけていないことと同じなのだ。そこにこの兵器使用の(救い難い)愚かさがあるのだ、とある人が洞察している。その人の言葉をここで紹介する。

「あれほどの被害をもたらした巨大な爆発であったにもかかわらず、地球そのものはほとんど傷を受けていないのである。…(中略)…あたかも、春風が吹き過ぎただけのように、大地には傷一つ付いていない。地表に住む人間たちが受けた酷たらしい被害に比べて、地球そのものは何の変化も受けてはいなかったのである」

「最初は意外に感じられたその事実こそが、原爆投下という人間の行為の愚かさを、無限の真実をもって告発しているように見えた。地球にとっては、アメリカ大統領が投下を命じた原爆など、『春風そより』に過ぎなかったのである」

(略)

「地球の表面に長い年月の間に刻みこまれ地形にはかすり傷すら負わすことのできない代物が、その大地の上ではいずり回る2足歩行の動物たる私たちの生活と精神には消すことの出来ない大打撃を与える。この、悪魔の哄笑と神々のアイロニーに満ちたコントラストの中に、原爆という『最終兵器』の愚かさが象徴されているのである」

「驕り高ぶるな、人間たちよ。お前たちの作った爆弾など、母なる地球を傷つけることなどできない。せいぜい、本来慈しみ合うべき同胞同士で殺し合うだけの結果になるだけである。軍人の喜ぶものは子供のそれに似ているとしばしば言われるが、これだけ性質の悪いおもちゃもそうはないだろう」(以上、引用は茂木健一郎著『今、ここからすべての場所へ』・筑摩書房刊「それでも春には希望を抱き」の章より)

★地球そのものには大したダメージを与えないという原爆。しかしいったん投下すれば、地表に暮らす全ての生命を完全に焼き尽くし、大量のジェノサイド(大虐殺)を即席に成し遂げる、悪魔の産物そのものの兵器は、いまや何百年かけても完全になくすことは出来ないほどに大量に作られてしまった。

★地上で蠢く生命を全て完全に抹殺する核兵器は、最早悪魔の飛び道具であることを、どの国の人間であれ、戦争を心底憎む者は、被曝国であろうがなかろうが、声を大にして、叫び続け、運動し続けなくてはならぬ。
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